テキサスの宝石商、約50万ドルの奨学金を寄贈し、学習の遺産を残す


レストランのテーブルで座り、見つめ合っている男女。
50年間結婚していたCharlesとErna Leutwylerは、テキサス州オースティンで人気のあるCharles Leutwyler Jewelers(チャールズ・リュートワイラー・ジュエラーズ)のオーナであった。この二人の名前での寄付基金による奨学金は、2018年から毎年授与される。写真提供:Leutwyler家

陽気なCharles Leutwylerとおとなしい妻のErnaは、性格が正反対のようですが、二人とも学ぶことと宝飾品に対する情熱を共通して持っていたため、テキサス州オースティンで人々から慕われる宝石・宝飾品店を開業し、友人たちが羨ましがるほど幸せな結婚生活を送っていました。

Charles Leutwyler Jewelers(Charles Leutwyler ジュエラーズ、別称リュートワイラーズ)を20年以上経営してきたGIA卒業生の二人は、初めて宝飾品を買うために店に立ち寄った人、ジュエリー業界で新しく働き始めた人、または最新のデザインを探している顧客など、どのような人でも彼らの持っていた知識を惜しみなく分かち合いました。

CharlesとErnaは、他の人を教えることが非常に大事だと信じていました、とこの二人の46年間の知り合いであったJohn Sofyanosは語ります。

二人が亡くなった後(Charlesは1996年、Ernaは2015年に死亡)でさえも、この夫婦は宝飾品に対する情熱と学ぶことへ対しての受け継ぎを年間18,000ドル(約200万)のGIA奨学金へ円)を寄贈する形で分かち合っています。この奨学金はグラジュエイトジェモロジスト(GG)グラジュエイト ジュエラー(GJ)ジュエリーデザイン&テクノロジー(JDT)を米国のキャンパスで修了する学生に授与されます。最初の奨学金は2018年6月に授与され、その後は毎年12月に翌年のプログラムに対して授与されます。

Leutwyler’s(リュートワイラーズ)によるGIA寄付基金への約50万ドル(約5450万円)の寄付によって資金供給される、Charles and Erna Leutwyler記念奨学金は、学ぶことと宝飾品に対するこの二人の愛が、宝石・宝飾業界のプロとしての成功を望む次世代に必ず届くでしょう。

とても特別なカップル

CharlesとErnaは、テキサス州中部で生まれ、人生の大半をそこで過ごしました。Charlesが第二次世界大戦でアメリカ陸軍航空隊の任務を終えた後、二人は1946年に結婚しました。二人は一緒に働くのを楽しみ、幸せに暮らしていました、とSofyanosは昔を振り返りながら話します。

元気いっぱいのCharlesは、刺繍が付いたメキシコ風の結婚式用のシャツを毎日着ていて, 「ベンチで作業している際にそれで手を拭いていたので指紋だらけでした」と、Sofyanos は語ります。彼が言うには、ぶっきらぼうな人でしたが、本当は思いやりのある人で、皆にとても尊敬されていました。

その一方、Ernaは穏やかで控えめな人でした。仕立てられたスーツをぴったりと着て、真珠のネックレスをつけていました。まさに南部の女性でしたね、とSofyanosは説明します。

特別なご夫婦でしたよ、とベトナムから帰国した後、1969年の秋にCharlesに出会ったSofyanosは述べます。この二人の退役軍人はすぐ意気投合し、親友となりました。

Ernaは店頭で顧客に対応し、Charlesは中で作業していました。ほとんど毎日のように、猫が美しいダイヤモンドのネックレスを着けて、ショーケースに座ってましたよ、とSofyanosは語ります。

長年のクライアントであるKay Adamekは、1967年初頭、ダウンタウンにあった最初の店舗でLeutwyler夫妻に初めて会いました。その時、Charlesが彼女のソリティアの婚約指輪と結婚指輪を「両方とも彼独自のフィレンツェ風な」デザインで仕上げました。

本当に感じのいいお店で、Ernaはいつも素敵なジュエリーを見せてくれました。可愛くて、エレガントな方でしたよ。Charlesは素晴らしい職人でした。ライトと拡大鏡を額に付けて作業するのが大好きでしたよ、とAdamekは言います。Leutwyler夫妻の小さなお店は、信頼と誠実さで溢れていました、と続けました。

夫が他界してから数年後、Adamekは幼い息子とともにオースティンに戻り、Charlesが2つの元結婚指輪の金を使用して一緒の1つのリングを作るように、特別なリングをデザインしました。その後数年間、彼女は頻繁にこの二人を訪れました。

私が婚約して、再婚することになったとき、Leutwyler’sに行くのは当たり前のことでした、と彼女は言います。

それから40年が経ちましたが、そのリングは今でも褒められます。Charlesが選んだダイヤモンドはいつも見事でしたから、とAdamekは語ります。

ダイヤモンドの愛を共有

5世代目の宝石商であるCharlesは、戦後に父親の時計屋で働き始めましたが、本当に情熱を抱いていたのは宝飾品に対してでした。Charlesは、この業界で働くのを楽しんでいましたよ。評判は良かったし、ダイヤモンドのディーラーと話すのが好きでしたね、とSofyanosは語ります。

Leutwyler夫妻は、州議会議事堂からさほど遠くないオースティンのダウンタウンで1960年代後半に宝石・宝飾品店をオープンしました。数年後、二人はUniversity of Texas(テキサス大学、UT)の向いの通りにある「The Drag(ザ・ドラッグ)」として知られている地域に店を移転することを決心しました。1972年から1982年の間にLeutwyler夫妻の下で働いたClyde Nealによると、二人は移転が財政的に理にかなっていて、もっと楽しく働けることになると言っています。この賑やかな地域は学生に人気があり、人通りの多い場所でした。

Charlesはダイヤモンドを愛していました。大学の近くに店を構えることで、ダイヤモンドの婚約指輪を探しに来る若い大学生のカップルなど、全く新しいお客さんが来るとわかっていたのでしょう、とNealは説明します。

1972年にNealが婚約指輪を探しに店に入ったとき、このようにしてLeutwyler夫妻に会ったのです。3時間後、ダイヤモンドに関して期待していたよりも多くのことを学んで店を後にした、とNealは語ります。

Charlesは顕微鏡の前に私を座らせて、自分でダイヤモンドを見れるようにしてくれました。4Cについて説明してくれて、理想的なプロポーションにカットされたダイヤモンドのみを彼は販売すると私に言いました、とNealは説明します。私はたくさん質問をしましたが、彼はすべての質問に答えてくれました、と続けました。

Charlesは、弟子をよく受け入れていたので、Nealは数週間後にこの店で働くようになりました。彼はロウ付けや金での作業の仕方、リングのサイズ直しを教えてくれて、ダイヤモンドについてもさらに詳しく教えてくれました。そして、私がGIAに入学することを勧めてくれました。

Leutwyler夫妻は、従業員全員がGIAのコースを修了することを望み、修了した従業員には授業料を返金していました。腕が良くて、長続きするだろうと判断したら、GIAのクラスをとってもらいたかったのです、とNealは説明します。

Leutwyler夫妻も、キャリアを築き上げながらGIAのコースを取り続けました。Charlesは1966年にGIAよりグラジュエイト ダイヤモンド(GD)のディプロマを取得し、Ernaは数多くのGIAのコースを修了しました。彼らは新たな技術の進歩などの最新情報を常に取り入れることで、これからも顧客とその知識を分かち合うのを望んでいたのです。

ホープ ダイヤモンドのネックレスを持つ男性。
5世代目の宝石商であるCharles Leutwylerは、ワシントンD.C.にあるSmithsonian Institution(スミソニアン協会)のホープ ダイヤモンドを検査および写真撮影するために招待された。写真提供:Leutwyler家

宝石学、ビジネス、ジュエリーデザインの革新的な技術

Charlesはブリリアンスが最大になるようにカットされたダイヤモンドを販売することがいかに重要であるかを強調していた、とNealは語ります。彼は最も輝いていて最高品質のダイヤモンドのみを望んでおり、定期的に在庫品を写真に収め、コンピュータに記録を残していました。Leutwyler夫妻は、当時、他の中小企業よりも早くにコンピュータを使用していました、とSofyanosは言います。

また、Charlesは内包物や内部の特徴を観察するために、顕微鏡を使用してダイヤモンドの写真を撮影する方法(顕微鏡写真法)を独学で学びました。Nealによると、宝石の写真撮影の技術および業界関係者との強力なつながりがあったため、ホープ ダイヤモンドを撮影するという素晴らしい機会がCharlesに訪れました。

Charlesは、Smithsonian Institution(スミソニアン研究所)の宝石コレクションであるホープ ダイヤモンドの内部が撮影されたことがあるか疑問に思っていることを業界の友人に話しました。その友人がスミソニアン研究所の知り合いに話すや否や、Charlesは彼の技術を使用してホープ ダイヤモンドを撮影するよう招待された、とNealは回想します。

Charlesは、新しいスーツを買って、Ernaと一緒にワシントン D.C.へ行き、警備員とともに閉館後スミソニアンに入りました、とNealは説明します。

非常に堅苦しい場所でも、Charlesはユーモアたっぷりでした。Charlesは装置をセットしている間に彼の上着のポケットにホープ ダイヤモンドをこっそりと忍ばせたと言っていました。このとき警備員はすごく緊張していたとも言っていました、とNealは語ります。

また、Charlesは、芸術作品を制作して技術の面において限界を試すという、宝飾品を制作する機械的な側面も好んでいました。特に1つの作品が彼の「誇りと喜び」になったとSofyanosは言います。
 
彼は、1980年代に流行したスタイルであった"ゴールドナゲット(金塊)"スタイルのバンドが付いた、ミッキーマウスのTimex(タイメックス)ブレスレットウォッチをデザインしました。この腕時計の文字盤は、合計2カラット以上ある36個のダイヤモンドが周辺に飾られていました。この豪華な腕時計は、Texas Monthly(テキサス・マンスリー)誌の1982年1月号で「非常に派手な」デザインとして掲載されました。

そのミッキーマウスの腕時計は誰でも知っていました。すごく派手で、すごくユニークでしたから、とSofyanosは語ります。

教育とアドバイスの頼りになる人

Charlesは、カラー宝石のコースを教えていたテキサス大学の地質学教授、Edward Jonas博士と友達でした。Charlesは自身のダイヤモンドに関する知識を分かち合うことを希望し、ある晩、Jonas博士と彼の学生を店に招待し、ダイヤモンドの特別講演を行いました。そのクラスに在籍していたNealは、多くの学生がダイヤモンドそしてグレーディング方法について学習できて喜んでいたと語ります。

オースティンの多くの人々がアドバイスを求めてCharlieのところに来ていましたよ、と Sofyanosは述べます。Leutwyler夫妻は、コミュニティのためにダイヤモンドに関する教育クラスを夜に行い、購入する予定のある顧客は十分に知識を得ることができました。

仲間の宝石商もアドバイスを求めてCharlieを訪れて来ました。ある地元の宝石商が、Leutwylerに電話し、閉店後に会えないかと頼んでいたのをNealは覚えています。この宝石商は、アンティークの金製の懐中時計を修理していて、ケースを燃焼して穴を開けてしまったのです。簡単なことではありませんでしたが、Charlesはこの懐中時計のゴールドケースを修理しました。

それほどの良い評判があったのです。頼りになる人だったのです、と語ります。

二十年以上この店を経営し、宝飾業界でキャリアを築き上げた後、CharlesとErnaは1990年代初頭に店を閉業しました。長年にわたり、二人は多くの従業員、顧客、友人たちと知識を惜しみなく分かち合いました。

CharlesとErna Leutwylerは、コミュニティ、従業員、そして彼らが出会ったすべての人達と宝石や宝飾品への愛を分かち合うことに専念してきました。Charles and Erna Leutwyler記念奨学金のおかげで、学ぶことに対する愛と与えるという精神が継続することを光栄に思っています、と、GIAグローバル開発担当シニアバイスプレジデントのAnna Martinは述べます。数え切れないほど多くの将来の宝石鑑別士に影響を与える可能性がありますから、と続けました。

Kay Adamekは、Leutwyler夫妻が彼女の人生の中でも大事な人物になったと言います。

Charlesが亡くなったとき、私はErnaに手紙を書いたら、返事をくれて私を覚えていると親切にも言ってくださいました。何十年もの間、一体何人の若者があのお店のドアからお店に入って、どれだけ多くの物語が生まれたのかなと思いました、とAdamekは語ります。
 
そして今、この奨学金によってより多くの物語が生まれることでしょう。

寄稿作家のKristin A. Aldridgeは、GIAのパールプログラム及びAccredited Jewelry Professional(AJP アクレディテッドジュエリープロフェッショナル)プログラムの卒業生です。