職人の巨匠そして宝石・宝飾品の師の物語を伝える宝石の「絵画」
4月 27, 2018

「37 S. High StreetのNeil Houseの1階にある宝石・宝飾品店で、何百もの宝石で複雑に作られた輝く絵がクリスマスのためのショーウィンドウを飾っていないのは、過去50年間で初めてのことである。1927年以来、キャピトルスクエアにユニークな雰囲気をもたらし、数多くのコロンバスの訪問者や買い物客の心を温めてきた伝統は、常に労を惜しまずに宝石の絵を手作りで制作していた職人が亡くなったため終わりを告げた。」 -Columbus Citizen-Journal(コロンバス・シチズン-ジャーナル)、1976年、M.D. Hohenstineの死亡記事
ローズゴールドのヴィンテージブローチ、純銀製のスプーン、剥製の蝶が飾られているトレイのようにEtsyやeBayで販売されている数少ない思い出の品や職業別のリストと地元の新聞の死亡記事以外には、M.D. Hohenstineとオハイオ州コロンバスにある彼の小売店に関する話はインターネットであまり見つかりません。
それにもかかわらず、宝石の裸石(ルース)を何百も精巧かつ芸術的に配置して作られた、ショーウィンドウを飾る見事なHohenstineの展示作品は、何年もの間、オハイオ州の首都で想像力を掻き立ててきたクリエイティブで整然たる傑作だったのです。
たくさんの人がありとあらゆる場所からコロンバスを訪れて、必ずあのショーウィンドウを見に来ていました。クリスマスシーズン中は、3列も4列も並んで一生懸命に見ようとしていたときもありました。何年もの間、あまりにも多くの方がHohenstineの店のショーウィンドウの前に立っていたので、コンクリートがひずんでしまって、舗装しなければいけませんでした、とかつて同店に勤務していたことがあり、長年この家族の友人でもあるJudith Allen Hallは語ります。

M.D. Hohenstine Jewelersは、市内で最も賑やかな地区の一つの中心地にありました。ここは訪問者がツアーしたり、芸能人がコンサートを行ったり、政治家や軍関係者がパレードなどで歓迎される活気あふれる場所です。素敵にカーブしたショーウィンドウと高級感のある特大のマホガニー製のショーケースがあるこのジュエラーは、由緒あるNeil House Hotel(ニール・ハウス・ホテル)の中にあり、州議会議事堂の向かいおよび象徴的なLazarus(ラザロ)百貨店と劇場地区から通りを下ったところにあります。また、俳優、ビッグバンド、ジャズミュージシャン、そしてジュエリー好きのセレブとして有名なElizabeth Taylorのような芸能人もよく立ち寄ります。
このショーウィンドウで飾られていたデザインが、その日に彼女を惹きつけたのでしょうね、とHallは述べます。Taylorがカウンターを覗いていたとき、従業員が「ミスターH」と呼んでいたHohenstineは店の奥にいて、スタッフに対応させたとHallは説明します。
Hohenstineの血縁者である孫は、37 S. High Streetにあったこの店に訪れていたときの思い出を今でも振り返ります。私の大好きな思い出は、いつも店のショーウィンドウで彼の宝石の展示品を見ることでした、と Hohenstineの孫娘、Tracy Hagen-Smithは語ります。
2,000以上もの作品すべてが35mmのスライド写真にきちんと収められており、Hohenstineの複雑な展示作品が注目を集めていたように、彼は宝石・宝飾業界でインスピレーションと影響をひそかに与えていました。Hohenstineが舞台裏で行っていた指導、および宝石学、ベンチジュエリー、事業に関する設備に対する広範な知識を伝承する意志は、閉店後長い月日が経過した現在でもGIAで教育を受けたジュエラーと宝石鑑別士の世代を通じて受け継がれています。
「毎週火曜日は飾る日」
Gems & Gemology(宝石と宝石学)は、1951年にHohenstineの1,039番目のデザインを表紙で紹介し、何百もの裸石(ルース)の天然宝石のコレクションで始まった「効果的なショーウィンドウの展示作品」に注目しました。
合成石は全く無く、作品は全て販売用ではありませんでした、とHallsは述べます。
Hohenstineは、展示作品として使用した宝石を紙に包み、「56粒のルビー」や「10カラットのダイヤモンド1つ」などと走り書きをして、カスタムデザインの机の左の引き出しに宝石を保管していました。季節、休日、地元のスポーツチームや慈善団体を祝うデザインをスケッチするために柔らかい鉛筆を使用し、非常に慎重にそのスケッチの上に宝石を配置しました。各スライドの1つの角には数字が付いており、もうひとつの角には宝石の鑑別が記載されていました。このプロセスは少なくとも6時間かかり、通りがかりの客はHohenstineのセキュリティが施されたダイヤモンド室を除き、作業に取り掛かっている職人を見ることができました。
プレートに固定されずに配置されていた宝石は撮影され、ダイヤモンド室からショーウィンドウへと100フィート(約30メートル)の間を慎重に運ばれて飾られました。

毎週火曜日は飾る日でした、とHohenstineがショーウィンドウの飾りをどのように作っていたかを詳しく覚えているHallは語ります。1927年からお亡くなりになった1976年まで、火曜日の夜は1週間おきにショーウィンドウを整理して、新しい宝石のデザインを議事堂に向いている左のショーウィンドウの真ん中に置いていました。Hohenstines夫妻の結婚50周年記念の日でもこうしていました、と続けます。
スライド写真は、後世のために残した単なる記録ではありませんでした。Hohenstineは、宝石・鉱物の関連団体やKiwanis Clubのような市民団体などのために長い間頻繁に行った講義で教育ツールとしてこれらのスライド写真を使用しました。

宝飾品の指導者、GIA教育の提唱者
1891年、Hohenstineはコロンバスのドイツ村の近くで比較的貧しい家族に生まれました。中学校を卒業した後、有名な宝石商および時計職人のEdwin S. Albaughの下で働き、家計を助けました。Hohenstineは、Albaughの姪、Margaret Vauseと結婚し、後にコロンバスのダウンタウンで自身の小さな宝石店を開きました。経営が順調に進んでいたため、1927年にNeil Houseの中にある広いスペースへと移動し、競争が激しいこの地域でも繁栄し続けました。
彼は早い時期から自分のスキルに磨きをかけていました。当時は郵送だったのですが、GIAから資料を受け取ってコースについて知ったとき、すぐ登録して、認定宝石鑑別士(現在のGIA GG)になりました。そのことをとっても誇りに思っていました、とHallは語ります。
1935年、Hohenstineは、Albaughの下で同じく弟子入りしており、地元でよく知られていた宝石商のCurly Millerの下でも働いていた、Hallの父、Lawrence Allenを雇いました。AllenもGIAより認定宝石鑑別士のディプロマを取得し、Hohenstineは、その後5年間でAllenにとって良き友人そして指導者となりました。Allenは、近くのMount Vernon(マウントバーノン)で自身の宝石店、Allen Jewelers(アレン・ジュエラーズ)をオープンするため辞職し、Ohio Jewelers Association(オハイオ州宝石協会)の副会長に就任しましたが、2人は互いに連絡を取り合っていました。
Hallは、幼少の頃にHohenstineの宝石店を父親と訪問し、1948年、12歳のときにAllen Jewelersで父親の隣りで働き始めました。私はベンチで父の隣に毎日座っていました、とHallは語ります。しかし、これは彼女が高校に入学するまでのことでした。

1954年にHallが卒業した直後、悲劇がAllen家を襲いました。彼女の父が41歳という若さで突然亡くなったのです。わずか19歳であったHallは、家族が経営するこの宝石店を引き継ぎ、地主が建物を売却によりAllen Jewelersを完全に閉店するまで数年間営みました。
宝石・宝飾業界で研修を受けたHallと姉妹達は、コロンバスに引っ越しし、別の宝石店で働き始めました。彼女の父の旧友、M.D. Hohenstineは、喜んでHallを自身の宝石店に歓迎しました。彼は、Hallが自分の宝石店を経営している間にAmerican Gem Society(米国宝石学会)から取得した公認宝石商の証明書を M.D. Hohenstine Jewelersの壁で自分の証書の隣りに誇らしげに飾りました。宝石・宝飾業界では専門家としての女性の役割はまだ完全に受け入れられていないことがあったので、これは注目に値することであった、とHallは説明します。
彼女は、Hohenstineと8年間一緒に働き、販売に従事し、ショーウィンドウの展示作品を飾り付けるのを助けたりしました。また、彼の励ましを得て徐々に宝石の教育の世界にも足を踏み入れました。M.D. Hohenstine Jewelersが、仲間のジュエラーであるThomas Hawkによって1966年に買収されるまで、HallはM.D. Hohenstine Jewelersを代表して講演したり、プレゼンテーションを行いました。Hallはフロリダ州に引っ越し、タンパのUniversity of South Florida(南フロリダ大学)など複数の学校で宝石学を教えていましたが、HohenstineはHawkの宝石店で働き続け、1週間おきに宝石の展示作品を作成していました。

知識を分かち合う遺産
数年間GIAで宝石学およびデザインのクラスを取ったHallはクラスを教え始め、1974年、彼女が師として仰ぐHohenstineにショーウィンドウのデザインのスライドのコピーをもらえるかどうか手紙を送って尋ねました。
最初は、30時間の授業時間を埋めるのに使いたかったので尋ねたのです、とHallは笑いながら話します。
Hohenstineから、コピーの代わりにオリジナルを送ってくれると返信がありました。以前は他の方から同じことを頼まれても拒否していたのに、このように応じてくれたのです。
教育のために使用されることと理解して、贈り物として私のコレクションからスライドを40枚送ります、と手紙に書かれていました。
その時点から、このスライドを使わずにHallがクラスを教えたことは一度もありませんでした。
皆このスライドを見るのをいつも楽しみにしていて、販売用でないこんなに大きいコレクションを誰かが持っていたことに驚いていました、と彼女は話します。

その後数十年にわたり、Hallは、ほとんどが既に活躍中の宝石商や質屋である彼女の生徒に、GIAで勉強し続けることを勧めました。質屋業のような専門職では、手にしたルーペと記憶に残っている宝石学の知識だけですぐに決断をしなくてはいけません、と彼女は説明します。
私は何人にもGIAのクラスを取るようにと説得しました。GIAの知識の基礎を持っていたので、私は最初からすぐに宝石を鑑別することができたと説明したのです、とHallは説明します。
Hallの学生の一人、Shane Socashは既に活躍中の宝石商で、宝石学の知識を深めようとしていました。
Judithは、私が受けた宝飾品の教育で得られなかった宝石の歴史、伝説、美しさを紹介してくれました、とグラジュエイトジェモロジスト(GG)のディプロマを取得し、フロリダ州セントピーターズバーグにあるDavid Reynolds Jewelry & Coin(David Reynoldsジュエリー&コイン)のオーナーとなったSocashは語ります。そして、知識を深めるのにすごくためになりました。彼女がGIAで勉強したので、同じように私の人生でもその方向を探求したいとわかっていました、と続けました。

Hallが2016年に80歳で教壇から去ったとき、Hohenstineが他界した際にHawkが彼女に送った作品など、Hohenstineのスライドと彼より受け取ったRichard T. Liddicoat著『Gem Identification(宝石の鑑別)』の初版をどこに保管するべきかと検討していました。
これらを永久に保管するのに最も適している場所を決める段階で、私達を一緒に結びつけているつながりはGIAだという結論に至りました。GIAとは、教育を受けるだけでなく、宝石や宝飾業界の歴史への私たちの情熱や知識を伝えるために使える手段なのです、と彼女は言います。
Hallは、GIAのRichard T. Liddicoat宝石図書館情報センターが宝石学の教育を促進するための寄贈品に興味があるかどうか尋ねました。Hohenstineが彼女に何年も前に託したスライドのコレクションを保管できることを光栄に思う、と司書から伝えられたときに彼女は感動しました。
私にとって、そのつながりとは、GIAの初期の卒業生だったHohenstineさんが、同じくGIAの卒業生だった私の父を教えていたということです。私は父の影響でGIAで勉強することを決心しました。2世代にわたって宝飾業界の教育と知識を受けた者として、私は30年間クラスを教えて、知識をクライアントや娘さんと分かち合えるShane Socashのような卒業生に動機を与えることができました、と彼女は語ります。
M.D. Hohenstineが「手作りの宝石の絵画」を初めて披露してからおよそ一世紀経ち、最後の作品を制作してから40年が経過しました。しかし、彼は宝石・宝飾業界の次世代に未来を託したため、彼の知識、職人としての技そして卓越した創造性の遺産は、このようなユニークで思い出に残る芸術品を作成した町の境界を超えて、これから何年もの間、宝石商に引き続き感銘を与えるでしょう。
寄稿者Jaime KautskyはGIAダイヤモンドグラジュエイト、またGIA Accredited Jewelry Professional(AJP アクレディテッドジュエリープロフェッショナル)で、The Loupe(ザ・ルーペ)誌の共同編集者を務めていました。